三重の法務労務コンサルタント

仕事(人事労務、海外人事、税務、法務など)で学んだことや、趣味(歴史や旅行など)で感じたことなどを記載します

アフガニスタン紛争

中央アジアに位置するアフガニスタンは、東アジア、南アジア、西アジア、ヨーロッパを結ぶ陸の交易路の要衝であり、経済・文化の交流が盛んにおこなわれた地域ですが、同時に、長年にわたって周囲の大国の侵略にも苦しめられてきた地域です。

紀元前6世紀ごろにはペルシャ帝国の一部となり、紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王に征服され、その後も南からはインド、東からはモンゴル、西からはアラブ人などが押し寄せて、アフガニスタンを自分たちの領土にしています。

19世紀には、アフガニスタンはロシアとイギリスの勢力争いの中に巻き込まれます。イギリスは、1839年1878年と2度にわたりアフガニスタンとの戦争に挑み、険しい地形にも阻まれて軍事的には敗退しましたが、アフガニスタンもロシアの影響下に置かれないために、外交的にイギリスの植民地となります。

1919年にはアフガニスタンナショナリズムが高揚して第3次イギリス・アフガニスタン戦争に発展し、イギリスからの独立を達成しています。

イギリスから独立したアフガニスタンは、ソ連と友好関係を結び、政治から宗教色を押さえ、貴族階級の廃止や立憲君主制の整備、女性の教育といった近代化に力を入れようとしてきましたが、急激な近代化はイスラム保守層や農村部の地主、一般国民からも反イスラム的であるとの不満が高まり、政治が混乱して、クーデターが何度も起きていました。

1978年4月には社会主義革命が起こり、アフガニスタン人民民主党が政権を握り、アフガニスタン民主共和国が成立しましたが、各地で保守派・イスラム派・反共産主義勢力が反政府活動を起こして内戦状態となり、民主共和国政府は支配力を失っていきます。これに対して、ソ連は1979年12月にアフガニスタン革命を救うという名目で8万人の兵士をアフガニスタンに進行させます。

アメリカのカーター大統領は、ソ連軍のアフガニスタン侵攻に対する国際世論へのパフォーマンスとして、モスクワオリンピック大会へのボイコットを呼びかけました。呼びかけに応じてボイコットした国のほとんどはアメリカに経済的に依存していた中南米等の後進国で、経済的な圧力に屈してボイコットしました。先進諸国でボイコットした国はアメリカ・カナダ・西ドイツ・日本です。日本のボイコット決定は、アメリカの圧力というよりも自らアメリカに追随するという独立国としては不名誉な決断でした。モスクワオリンピックを目指して練習していた選手たちの4年間の努力が政治によってつぶされてしまったのです。

1980年のモスクワ大会では、アメリカや日本がオリンピック憲章を無視して、政治的理由でボイコットするという過ちを犯し、1984年のロサンゼルス大会では、ソ連や東欧諸国が同じ過ちを繰り返しました。

ソ連軍の侵攻に対して、隣国のパキスタンやイランに逃れていたアフガニスタンの難民やイスラム諸国の国民の中からジハードを戦うムジャーヒディーン(聖戦士)と呼ばれる義勇兵が続々現れてきました。アメリカは、ソ連軍に抵抗させるために、彼らに金と兵器を提供して支援しました。ビン・ラディン一派もこの頃ムジャーヒディーンに加わっています。後に、この戦争で戦った多くの義勇兵が反ソ同盟軍であったアメリカに対して9.11テロを行っているのです。

ソ連軍は1989年にアフガニスタンから完全に撤退し、1992年には、首都のカブールもムジャーヒディーンの手に落ちるのですが、ムジャーヒディーンの内部抗争が起きて治安が悪化し、再び内戦状態になりますが、イスラム原理主義タリバン(神学生)が現れ、ビン・ラディン一派の援助を受けて1996年にカブールを占領しました。

2001年9月11日、アメリカ本土で同時多発テロ事件が発生し、アメリカはビン・ラディンを事件の首謀者としてタリバン政権に引渡しを求めましたがタリバンは応じず、アメリカは10月7日から空爆を開始しました。

アフガニスタン多民族国家で、パシュトゥン族(42%)、タジク族(27%)、ハザラ族(9%)、ウズベク族(9%)などが住んでいます。

パシュトゥン族を中心とするタリバンソ連軍侵攻後の内戦において最終的に勝ち得た勢力であり、全土の9割を支配していましたが、北部にはタジク族・ウズベク族などの組織がいくつかあり、彼らは反タリバンとして北部同盟を結成しており、アメリカ軍は彼らを支援する形で戦争を進め11月13日には北部同盟軍がカブールを制圧しました。

アメリカ軍のアフガニスタン侵攻には、アフガニスタンの北隣に位置する、ソ連から分離独立したウズベキスタントルクメニスタンとがあり、両国は石油と天然ガスの埋蔵量が豊富で、アメリカはそれをアフガニスタンを経由するパイプラインでインド洋まで運びたいので、アフガニスタンアメリカよりの国にしておきたいというような要因もあったようです。

2002年の民族大会議でパシュトゥン族のカルザイ大統領が承認されるのですが、閣僚ポストの配分をめぐる民族間の対立が続き、地方軍閥も多くいて、いまだに政権が安定していないようです。

戦闘の終結後もアメリカは対テロ作戦継続のため、軍2万人の駐留を続けますが、アメリカ軍はイラクに力を傾けるために、アフガニスタンでの軍事指揮権をNATO軍に移管します。NATOが指揮するのは国際治安支援部隊(ISAF)で、兵力は約4万人ですが、2005年頃からタリバンアフガニスタン南部で支配力を強めてきたため、予想以上の苦戦を強いられています。

アフガニスタンは現在、世界のケシ栽培の92%を占めるケシ王国となっており、タリバンの資金源となっています。アフガニスタンでは農業人口が80%を超えるのですが、長年の内戦で農業用水路が壊滅的な打撃を受けており、農業が簡単には復興できないため、政府や米軍が力で抑えても、農民は生活のためにケシ栽培に頼らざるを得ない状況となっているようです。

 

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