三重の法務労務コンサルタント

仕事(人事労務、海外人事、税務、法務など)で学んだことや、趣味(歴史や旅行など)で感じたことなどを記載します

従業員の採用活動

 私は、大学卒業後の昭和45年(1970年)に、大阪に本社のある機械部品メーカーで、本社の社員数は500名ほど、国内全体での社員数は1,500名ほどの会社に入社したのですが、入社後3年目の昭和47年に寝屋川工場の総務課という部署に転勤になり、そこで初めて従業員の採用や労務管理などに関する仕事をすることになりました。

 当時、寝屋川工場は社員数300名ほどの規模でしたが、法律的には本社の子会社で独立した法人という形式を取っていたため、大卒の社員は全員本社で採用するのですが、高卒と中卒の新入社員や中途採用者は独自に工場で採用するというシステムになっていました。

 私は、昭和47年から51年までの5年間ほどその工場の総務課という部署に転勤になり、従業員の採用や労務管理に関する仕事をするようになったのですが、今考えると最も苦手な仕事だったように思います。

 新入社員の採用活動は毎年7月から始まり9月には終わるのですが、私は鹿児島県と宮崎県の中学と高校が担当となり、その間に何度か大阪から宮崎まで夜行列車で行き、そこでレンタカーを借りて1週間ほど学校や職安を回って挨拶と会社案内をし、夜には学校の先生や職安の職員を接待(この夜の接待が最も嫌だったですね)して、休日には会社の独身寮に住んでいる社員の家庭訪問をして家族に近況を知らせたりしていましたが、毎年九州から5名前後の生徒を採用できていたように思います。

 当時は人手不足の時代でしたので主に大阪・枚方の職安を通じて常時中途入社員の採用活動をしており、毎年数十名の社員を面接して採用していました。

 当時は、社員の雇用形態は正社員とパートタイマー(ほとんど短時間勤務の家庭の主婦です)だけで、現在のような派遣社員契約社員やアルバイトなどというような制度はまだありませんでした。

 この派遣社員契約社員という制度は、会社側には有利ですが、従業員側には不利な制度だと思います。

 当時の正社員の給与形態は年齢給と能力給で構成されており、初任給は男性の方が女性より少し高かったのですが、男女雇用機会均等法ができた時に、男性と女性の初任給が同じになりました。

 ただし、大卒の社員は総合職(ほとんどが男性で女性は少数です)と一般職(女性社員だけです)に分かれて、総合職の初任給は一般職より高くなっていました。

 昭和52年に寝屋川工場での私の配属が総務課から経理課に代わり、それ後何度か他工場や最終的には本社への転勤もありましたが、採用活動をすることはほとんどなくなりました。

 ただし、私は30年ほど前から約10年間、本社人事部の管理職社員になっていたので、25年ほど前に、フィリッピンのセブに子会社ができた時には、現地で30名ほどの大卒の幹部社員を面接し、20年ほど前に中国の大連に子会社ができた時には現地で50名ほどの社員を面接したこともありました。

 当時の現地子会社の人事制度や給与体系などもほとんど私が決めたのですが、当時の現地社員の給与は日本円に換算すれば一般のワーカーは月額1万5千円程度、管理職は5万円程度でした。

 当時の日本の会社では初任給が高卒で15万円、短大・高専卒で17万円、大卒で20万円、管理職で50万円程度でしたが、その後中国や東南アジアなどでは給与水準は数倍になっているようですが、日本では最近の20年間給与水準がほとんど変わっていないようです。

 それで、以前はほとんど日本人が中国や東南アジアへ観光に行っていたのに、最近は逆に中国や東南アジアから日本へ観光にくるようになったのかなあと思っています。

 

フィリッピン・セブ工場の創立10周年記念行事(鳩を飛ばしています)

 

中国・大連で交通整理をしている女性の警官

(警官がいても、横断歩道で信号を守っているのは我々日本人だけでした)

 

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