この地域は、インドとシナ(中国)に挟まれているので、インドシナと呼ばれており、古くからインド文明や中国文明の影響を受けています。以前、タイ・カンボジア・ベトナムの3カ国の旅行をしたときに現地のガイドさんから聞いた話などを参考に、3カ国の歴史を簡単に紹介します。
〇 タイ
12世紀頃まではタイ地域にはモン族、クメール族、タイ族などさまざまな民族が移動してきたようですが、タイ地域に統一国家ができたのは13世紀初頭に中国の雲南地方から南下してきたタイ族が建てた「スコータイ王朝」だといわれており、日本と比べると国の統一はずっと新しいようです。
この王朝は第3代国王ラーマカムメンの時代に最盛期をむかえており、タイ文字を作り小乗仏教を国家宗教としました。しかし、タイの本格的な王朝は次のアユタヤ王朝です。1350年にラーマティボディ1世がアユタヤを都にして初代国王となりました。その後アユタヤは国際商業都市として発展し、17世紀初頭には日本人町もできて山田長政のように王の家臣になった日本人もいました。
アユタヤ王朝は1767年に西方から侵攻してきたビルマに滅ぼされ、その後混乱期を経て、1782年にチャクリーが即位して、現在のチャクリー王朝を開きました。
その後、19世紀には東南アジア諸国が全て西欧の植民地となっていった中で、タイだけは植民地にならず独立を保っています。20世紀になり、無血クーデターが起きて、王政から立憲君主制に変わり現在に至っています。
○ カンボジア
6世紀に、カンボジア国家の起源とみなされているクメール人の真臘(しんろう)という国が勃興し、インドからヒンズー教やサンスクリット文字を取り入れ、クメール文字を作っています。
クメール帝国の最盛期は、12世紀初めのスールヤヴァルマン2世から13世紀初めのジャーヴァルマン7世までの約100年間でした。
スールヤヴァルマン2世は各地にヒンズー寺院を建設しましたが、その最大のものが自身の墓でもあるアンコールワットです。
ジャーヴァルマン7世はアンコールトムを都として造成し、各地に仏教寺院を建設しました。
その後クメール帝国は徐々に衰退に向かい、15世紀にはアンコールワット、アンコールトムを放棄して、首都をプノンペンに移しています。
1887年にはカンボジアはフランスの植民地となり、太平洋戦争で日本軍が侵攻した機に乗じてシアヌーク殿下が1945年にカンボジアの独立を宣言したが、戻ってきたフランスによって独立を取り消され、再び植民地に戻ってしまいますが、外交努力で1953年に完全に独立を達成しました。
その後、右派のロンノルによるクーデター、ポルポトの率いるクメールルージュによる支配(ポルポトの支配していた4年間でカンボジアの総人口800万人の内200万人が虐待などによって死亡したといわれています)、ヘンサムリン派によるポルポト派の追放と内戦(ポルポト派は退却時に全土に地雷を埋めています)、ポルポト派の降伏と国民への謝罪、シアヌーク殿下の再即位によるカンボジア王国の復活などを経て、政情も次第に安定し、現在は海外政府やNGOなどの援助を得ながら活発にカンボジアの復興が行われています。
○ ベトナム
紀元前200年頃に中国の始皇帝がベトナムの北部を侵略して、以後約1千年間ベトナム北部は中国に支配され続けていますが、同時にさまざまな中国文明もベトナムにもたらされました。
ベトナムの中部、南部ではベトナム民族とは異なるチャム族が2世紀から15世紀ごろまでチャンパ王国を築いています。この王国はインドからヒンズー教を取り入れるなど、インド文明を取り入れています。
北部で、ベトナム人が中国の支配から独立したのは10世紀のときで、以後ベトナム王朝が始まります。
10世紀のベトナム独立以後、ベトナム王朝とチャンパ王朝は長い間抗争を繰り返しますが、15世紀にベトナム王朝が勝利し、18世紀にはチャンパ王朝は完全に滅亡し、チャム族は現在山岳地域に少数民族として生き残っているだけのようです。
1884年にベトナムはフランスの植民地となります。
太平洋戦争では日本軍がベトナムに侵攻してきますが、日本軍が無条件降伏をすると、ホーチミンを主席としてベトナム民主共和国の独立宣言をします。しかし、フランス軍が戻ってくると、ベトナムの独立を認めず、1946年にはインドシナ戦争が始まり、その後アメリカ軍がフランス軍を引き継いで、悲惨なベトナム戦争へとつながっていくのです。
ベトナム戦争は1975年にアメリカ軍が撤退して終結します。ベトナム人は1975年以後のことを戦後といっていますので、戦後生まれとは現在46才以下の人のことをいうようです。
タイのアユタヤ