三重の法務労務コンサルタント

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高杉晋作・坂本龍馬とその妻たち

 高杉晋作は1839年8月に、長州藩士、高杉小忠太(200石の上級武士)の長男として生まれています。

 1852年に藩校の明倫館に入学し、柳生新陰流の剣術も学び免許を皆伝されています。

 1857年に幼いころからの知り合いだった久坂玄瑞の勧めで吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞と共に松下村塾の四天王と呼ばれた俊才でした。

 1858年に藩命で江戸へ遊学し、昌平坂学問所などで学びますが、1859年に師匠の松陰が安政の大獄で伝馬町の牢に投獄されたため、獄中の師の世話をするのですが、藩命で長州へ帰る途中、松陰は処刑されます。

 晋作は30歳までは結婚しないと宣言していたそうですが、1860年11月に長州藩士、井上平右衛門(500石の上級武士)の次女である雅と結婚しました。晋作22歳、雅16歳の時で、雅は長州一の美人と言われていたそうです。この結婚は、松陰が処刑された悲しみと怒りでいつ爆発するかわからない晋作の身を案じて、父・小忠太が話を進めたようです。

 しかし、新婚初夜の翌日、晋作は長州藩が建造した丙辰丸に乗船して、江戸へ遠洋処女航海に出ており、結婚生活6年間のうち、実際に一緒に暮らした期間は1年程度しかなく、各地を飛び回っていた晋作とは手紙のやり取りが主だったようです。

 1862年1月に長州藩から外国の情勢を検分するように命じられた晋作は、5月に貿易船として幕府が運用していた千歳丸に乗って長崎を出航し、約2か月間上海に滞在していますが、この時にピストルを2丁購入して、後に内1丁を坂本龍馬に進呈しており、寺田屋事件でこのピストルが龍馬の身を守ることになるのです。

 1863年関門海峡で外国船砲撃事件が起きると、高杉は松陰が描いた近代的な軍隊である奇兵隊を結成しその初代総督となります。

 晋作の愛人になる「おうの」は下関で芸者として座敷に出ていたようで、晋作が下関で騎兵隊を結成していた時に出会ったとされています。そのおうのを気に入った晋作が身請けをして一緒に暮らし始めたようです。

 1864年7月の蛤門の変により、攘夷派の長州藩は京都を追われます。さらに幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行います。このような情勢下、長州藩では幕府に恭順する俗論派が台頭し藩政を握りますが、晋作は下関の功山寺で挙兵し、俗論派を排斥して翌年の2月には尊王討幕派が再び藩政を握ります。この年の3月、晋作はイギリスへの密航を企て長崎へ行きますが、イギリス商人のグラバーに説得されて洋行を中止し、4月には下関に戻り、開港を推し進めようとします。しかしこの計画は長州の攘夷主義者の反感をかい、晋作は命を狙われたので、5月に讃岐の博徒・日柳燕石(くさなぎえんせき)を頼って瀬戸内海を渡ります。三味線を抱えて愛人の「おうの」を連れだって行き、金毘羅の金山寺町(きんさんじ)にかくまわれます。高松藩が晋作の捕縛にかかった際、燕石は自分が代わりに縛につき、晋作を逃がします。晋作は6月に桂小五郎の斡旋により長州に帰っています。

 ほとんど家を空けていた晋作でしたが、雅との間に1864年10月に嫡男・高杉梅之進が生まれています。

 薩長同盟が結ばれた1866年の2月には、晋作の肺結核が悪化し、下関で看病していた「おうの」のところへ、高杉雅と梅之進が訪れ、初めて対面していますが、この時晋作は気まずくて困ったと桂小五郎への手紙に書いています。

 晋作の病状が悪化した1867年3月下旬、父である高杉小忠太、雅、梅之進が再び下関に入ると、それまで看病していた「おうの」は遠ざけられ、そのまま晋作は4月14日にその短い生涯を閉じます。

 晋作の死後、まだ24歳ぐらいだったおうのは他の男と良い仲になるのですが、高杉晋作の名を汚してはいけないと、桂小五郎伊藤博文、山形有明などに説得されて尼となり、彼らから経済的援助を受けて晋作の墓を守っていくことになります。

 高杉雅もまだ22歳ぐらいで美人でしたが、再婚せず、高杉家を守っていくことになります。

 一方、坂本龍馬高杉晋作より3歳年上で、1836年に土佐藩郷士(下級武士)坂本家の次男として生まれています。商家出身の坂本家は下級武士でしたが、多額の財産を有しており、非常に裕福な家庭だったようです。

 龍馬は1853年に江戸へ行き、北辰一刀流千葉周作の弟の千葉定吉道場に入門しました。翌年土佐に帰郷しますが1856年に再度江戸へ行き、千葉道場に再入門しました。龍馬は1858年に千葉道場の次女千葉さな子と婚姻しますが、その年にまた土佐に帰郷します。

 千葉さな子は北辰一刀流を学び、10代の頃に皆伝の腕前に達していたようです。また美貌で知られ、「千葉の鬼小町」と呼ばれていたそうです。

 父・定吉は結婚のために坂本家の紋付を仕立てたが、龍馬の帰郷後は疎遠となり、後に龍馬の死を知らされるとこれを形見にしたそうです。

 千葉さな子は龍馬の死後も彼を想い、一生独身で過ごしたと伝えられており、彼女の墓石には坂本龍馬の妻と記されているそうです。

 1862年3月に龍馬は土佐を脱藩し長州から九州へ向かったようですが、8月には江戸に到着して千葉道場に寄宿し、この期間に土佐藩の同志や長州の高杉晋作久坂玄瑞らと交流しています。

 1863年2月に勝海舟の取りなしで、龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することも追認されました。10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられますが、帰国延期申請が拒否されると、藩命を無視して再度脱藩します。

 1864年5月に龍馬は楢崎龍(おりょうに出会い、一目見て相思相愛の仲になったといわれ、懇意にしていた寺田屋の女将・お登勢に預けています。

 その後、勝海舟が老中・阿部正外の不興を買い、軍艦奉行も罷免され、1865年3月に神戸海軍訓練所は廃止されます。勝海舟の頼みで職を失った龍馬らの庇護を引き受けた薩摩藩は龍馬らに出資し、5月に龍馬らは長崎で亀山社中(のちの海援隊を設立します。

 1866年1月に、寺田屋に宿泊していた龍馬が伏見奉行の捕り方に襲われる事件が起き、入浴中だったおりょうが気づいて龍馬に知らせたので、龍馬は晋作からもらったピストルで防戦し、脱出に成功しました。

 その後まもなく、龍馬とおりょう中岡慎太郎の仲人で結婚します。この時龍馬32歳、おりょう26歳で、西郷の勧めもあって薩摩に湯治に出かけます。これが日本で最初の新婚旅行だといわれています。

 その後、龍馬はおりょうを連れて下関に戻り忙しく動いており、1867年9月20日がおりょうが龍馬に会った最後の日となります。龍馬はおりょうに京へ30日ばかりいて、その後長崎へ帰ります。その時必ず下関によります、と手紙を出しますが、それが龍馬からの最後の頼りになってしまいました。

 そして、11月15日に近江屋で龍馬は中岡慎太郎と共に暗殺されてしまいます。

 1868年3月に、おりょうは土佐の龍馬の実家に迎えられたのですが、坂本家の家族と馴染めなかったようで、1年ほどで京都に戻っています。

 1874年、34歳の時におりょうは西村庄兵衛と再婚して横須賀に住み、西村ツルと名前を変えています。

 司馬氏が小説で「竜馬がいく」を発表するまでは、坂本龍馬は、維新前夜に活躍した革命派浪士のうちの、ちょっとだけ名を知られた人物の一人でしかなかったようで、晋作の時の「おうの」とは違い、維新政府の要人から坂本龍馬の名前を汚してはいけないといわれることもなく、彼らから経済的援助も受けられなかったようです。

 

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  楢崎龍(おりょう

 

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