三重の法務労務コンサルタント

仕事(人事労務、海外人事、税務、法務など)で学んだことや、趣味(歴史や旅行など)で感じたことなどを記載します

織田信長

 NHKの大河ドラマなどはたまにしか見ないのですが、何年か前に途中から時々見た時に、信長のそばで正室のようにふるまっている女性がいて最後に本能寺の変で信長とともに薙刀をもって戦っていたので、この女性は誰のことかと思って見ていたら、ほとんどありえない濃姫だという設定だったことを知って少し驚きました。

 織田信長の場合は、他のほとんどのドラマでも相当史実とは違うように脚色されているように思います。

 信長と濃姫の結婚は典型的な政略結婚で、1548年に斎藤道三織田信秀が講和を結ぶことになり、翌1549年に14歳だった道三の娘帰蝶濃姫)が15歳だった信秀の子信長のもとに嫁いだといわれています。信長と濃姫との間に子供はなく、濃姫がいつまで信長の正室であったのかはわからないのですが、婚姻7年後の1556年に父の道三が亡くなり、その後は史料に濃姫の記録がないので、道三の死後まもなく政略結婚の意味もなくなったので実家に帰されたのか、あるいは病死したのではないかと思います。

 その後、生駒氏の娘吉乃が1557年に信長の長男信忠を生み、翌年に次男の信雄を生み、翌々年には長女の徳姫を生んでいますが、1566年に病死しています。さらに坂氏の娘が1558年に信長の三男信孝を生んでいます。

 また、信長の守り役だった平手政秀は、ほとんどのドラマでは「うつけ」だった信長を改心させるために自害をした忠臣だったように設定されていますが、本当は、信長の父信秀が死んだのちに信長の地位を脅かすほどに勢力を拡大したので、政秀の長男が信長に反抗したのを機に信長に追い詰められて、自害に追い込まれたようです。

 忠臣が馬鹿な殿様のために命を捨てて尽くした忠臣蔵のような物語は江戸幕府封建制度身分制度を守るために儒教を取り入れてからできたもので、それまでは主君も部下も互いに知恵を絞ってより優秀で自分の役に立つ上司や部下を選ぼうとしていたようです。例えば、藤堂高虎は最初80石の武士でしたが、7度主君を変えており、そのたびに出世をして最終的には32万石の大名になっています。

 信長は信秀の三男ですが、信秀の死後、叔父や兄や弟など信長の家督相続に反抗する勢力が多かったので、信長はそれらの勢力を我慢強く次々に滅ぼしていき、8年をかけて尾張を統一しています。

 よく信長と秀吉と家康を比較して、「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」で例えられるように、信長は短気で残酷だったといわれますが、本当は家康が一番短気でイライラすると指の爪を噛む癖があるので指はいつも深爪になっていたようです。一番残酷なのは秀吉で、家康を懐柔するために妹の朝日姫を強制的に夫と離縁させ、家康に嫁がせています(面目をつぶされた夫は後に自害しています)。また、不倫の子秀頼が生まれると実子だと思い込み、養子にして関白にまでしていた姉の子秀次を切腹させ、秀次の家族や側室・次女など合わせて39人を三条河原で処刑しています。

 信長は、尾張の統一前に弟信行の最初の反乱を鎮圧してその時は母の願いもあり弟を許しているのですが、弟の2度目の反乱が発覚した時点で、病気で危篤になったとだまして見舞いに来た弟を暗殺しています。ところが、信行の正室と3人の子は庇護しており、信行の長男信澄が成長すると大名にしています。また、弟を溺愛していた母も安土城に住まわせて大切に守っており、また、浅井長政を滅ぼした後、彼と政略結婚をさせていた妹のお市を引き取って2度と他の大名との政略結婚には利用せずに、3人の娘とともに清洲城に住まわせて守り育てています。

 信長は、当時としては珍しいマルクス並みの完全な唯物論者で、徹底した合理主義者で、強力な個性の持ち主だったようです。

 信長は、神仏や霊魂の存在や迷信などをほとんど信じていなかったので、安土城を作るときには石垣に墓石や地蔵石などを使っています。

 父信秀の葬儀では、無造作な服装で遅れて現れ、正装の参列者が見守る中を仏前に進んで抹香をつかんで投げつけ、退出してしまったそうです。これは、単なる狂気ではなく、非合理で形式主義的な宗教の儀式に対する批判の意思表示だったのだろうと思います。

 信長自身は神仏を信じていないのですが、桶狭間の合戦の前に熱田神宮に参拝し、両方表の銭を投げて「表が出たら勝ち、裏が出れば負け」と願を掛け、もちろん表が出て神のご加護ありと部下の士気をあげさせたように、神仏も利用しています。

 信長は、宗教とは特定の文化であり、自身にとっては仏像なども拝むものではなく単に美術品であり、政治と宗教とは分離させるべきだと考えていたようで、宗教活動そのものは否定しておらず、むしろ信教の自由を認めていたのですが、本願寺延暦寺などのように宗教が政治に介入してきたときには徹底的に弾圧しています。

 比叡山の焼き討ちも、その前年に浅井・朝倉の兵が比叡山に逃げ込んだ時に、信長は延暦寺にこれを追い出さなければ全山焼き討ちにする、追い出せば領地を安堵すると言っており、当時の人は常識的にまさか全山を焼き討ちにするなど罰当たりなことはできないことだろうと思っていたのですが、延暦寺がこれを拒否したから、信長は言ったとおりに全山を焼き討ちにしています。

 宣教師から地球儀を送られて、「地球は丸い」ということを聞いて、ほかの人は誰も信用しなかったようですが、信長は宗教や常識をほとんど信じておらず、徹底した合理主義者だったので、理にかなうとすぐに理解できたようです。

 また、信長の徹底した合理主義精神は人材登用の点にも表れています。戦国時代には北条早雲斎藤道三のように城を奪って大名になった人物はいますが、大名の配下で百姓や浪人など前歴不明の身分から大将になったような人物はほとんどいないのですが、信長には羽柴秀吉明智光秀滝川一益など、前歴不明でも大将に大抜擢した人物がたくさんいました。信長は徹底した実力主義者で、家柄とか血統はほとんど考慮せずに、個人の資質のみで抜擢しています。逆に能力のないものは排除されるので、父の代から使えていた佐久間信盛、林道勝の二大家老でも応分の働きをしていないと追放しています。

 合理主義者の信長は、科学技術にも好奇心が旺盛で、1575年に三千丁の鉄砲隊が武田の騎馬隊を破った話は有名ですが、1576年に織田水軍が毛利水軍村上水軍に大阪湾で大敗すると、信長は大型の軍艦の建造を命じており、1578年には伊勢で作られた一隻に大砲を3門と多数の新兵器の長鉄砲を積んで表面は鉄板を張りつめた大型の軍艦(黒船?)6隻が大阪湾へ来て、途中の和歌山沖で雑賀水軍を撃破し、大阪湾では600隻の毛利水軍村上水軍を大砲と長鉄砲で完全に撃破しています。

 江戸時代の最後にペルーの黒船が来て、江戸の市民が驚いたという話がありますが、実はその300年近く前に、すでに世界で初めての黒船を信長が作らせていたのです。

 もし、信長が本能寺で光秀に討たれておらず、あと10年か15年ぐらい生きていたら日本はどのような国になっていたのだろうかと思うことがよくあります。

 信長は、秀吉や家康とは違って、朝廷や宗教などは一定の文化として認めるが政治には介入させず、自分が国の王になって絶対王政国家を作っていただろうと思います。本能寺の変の前には、朝廷が与えようとするあらゆる官位を拒絶しています。天下を統一すれば自分が日本国の王で、天皇や朝廷は国王の下にある一定の機関に過ぎなくなるので、天皇から地位を任命されるいわれはないと考えていたようです。

 多分、あと3年あれば日本の統一はできたでしょうから、その後は秀吉のように領土を求めて大陸に兵を出したり、徳川幕府のように鎖国などをせずに、ヨーロッパと貿易をし、東南アジア・インド・東アフリカ・、西アメリカなど世界各地に貿易の拠点地や日本人町などを作って海外に進出していただろうと思います。

 江戸幕府鎖国をする前には、すでにフィリッピンベトナム・タイなどには日本人町が成立しており、山田長政のような浪人でもタイの一地方の王になっており、伊達政宗のような一大名でも藩内で大型船を作らせ、ヨーロッパと貿易をするためにスペインやローマに使節団を派遣するほど、当時の日本の国力は増大していました。

 あまが池というところに大蛇がいるという噂を聞くと真偽を確かめようと自ら短刀を口にくわえて池に飛び込んだり、宣教師から奴隷として連れてきた黒人を譲られるとこの黒人に大いに関心を持ち弥助という名前を与え側近に加えて本能寺まで同行させているように、幕末の高杉晋作坂本竜馬と同じぐらい好奇心が旺盛で冒険好きだった信長ですから、日本の統一後は自ら先頭に立って海外を視察し、日本をイギリスと並ぶ海洋国家にしていっただろうと思います。

 この時代の日本の技術力が優れていたと思うのは、幕末から明治にかけて欧米の文化を取り入れて日本が近代化していったときは、何十年も欧米から軍艦や兵器などを購入しているのですが、信長の時代には武器や大型船をヨーロッパから購入したのではなく、宣教師などから得た情報をもとに国内で独自に製造しており、信長が作らせた大型の鉄甲の戦艦や大砲や長鉄砲などはヨーロッパから購入したものではなく、すべて国内で独自に作らせたものだからです。

 戦国時代の日本は、各藩主が国力の増強を競って農業や商業を発展させており、人口も急増して日本の人口は2千万人ぐらいになっており、鉄砲の生産力は世界一だったといわれています。当時のヨーロッパの人口は、イギリスが350万人、スペインが700万人ぐらいですから、ヨーロッパの各国よりも日本の方が大国でした。

 空想の世界ですが、全国を統一した信長により始められた日本人の海外進出により、17世紀以後の世界の歴史は大きく変わっていただろうと思います。

 

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