三重の法務労務コンサルタント

仕事(人事労務、海外人事、税務、法務など)で学んだことや、趣味(歴史や旅行など)で感じたことなどを記載します

コンピューターのプログラムを作成

コンピューターのプログラム

 私が初めてコンピューターのプログラムを作成したのは、1976年に従業員が350名ほどの寝屋川工場の総務課に勤務していた時です。

 それまで経理課の人がそろばんや電卓を使い手作業で行っていた寝屋川工場の従業員の給与計算を天満にある本社のコンピューター(FACOM230-25)を使ってしようということになり、私がその業務を担当することになったので富士通COBOLというプログラム作成言語の勉強に通ったのですが、プログラムの作成は中学時代に得意だった代数の問題を解いていくような感じですぐに知識を習得でき、その後給与業務を担当することになりました。

 1979年に、同じ寝屋川市にあった従業員が70名ほどの子会社へ転勤になり、そこで総務と経理の責任者になりました。フォークリフトを作っている会社でしたが、得意先は約200件、仕入れ先も約50件もあり、事務処理が複雑だったので、手作業の処理をコンピューター処理に切り替えようと思いました。

 当時、パソコン以上オフコン未満みたいなマシンで富士通のF9450シリーズ(1台150万円程度)というのがありました(OSも独自の物です)。その上で動くソフトが「EPOWORD(ワープロ)」「EPOCALC(表計算)」「EPOBIND(表型データーベース)」「EPOACE(表型データベースの簡易言語)」で、これをEPOCファミリと言っていました。

 1983年にこの簡易言語のエポエースとベーシックを勉強して覚え、パソコン(F9450)を1台購入して、販売・仕入経理に関するプログラム(数十本)を自分一人で作り、営業・資材・経理事務の担当者にデータを入力してもらい、手作業の仕事を一部コンピューター処理に切り替えて行き、パソコンも1台から3台に増やしました。

 その後、1991年4月に本社へ転勤となり人事課長となったのですが、その年6月中旬の会社の創立記念日に西脇カントリーというゴルフ場で参加者が約150名という盛大な社内ゴルフコンペがありました。人事部がゴルフの事務局になっており、プレーの終了後来賓の部・シニアの部・全員の部と3種類の成績表を作り、各順位の発表と優秀賞・ベスグロ・ブービー・飛び賞・大波小波賞などの表彰をするのですが、手作業では大変だからパソコンを持ち込んで成績表を作ろうとしたが、過去2年失敗をしたという話を聞いたので、その年は私が仕事中に簡易言語のエポエースを使ってプログラムを作成し、事前に参加者の情報やゴルフコースの情報を入力しておき、当日は人事部の女性社員2名が受付をしていたので、彼女たちに全員のスコアをパソコンに入力してもらいました。最後の人のスコアの入力が終われば、多分手作業ですれば数名で作業しても少なくとも30分以上はかかると思われる成績表を、パソコンがプログラムで自動的に作成するので無人で5~6分ですべて印刷もでき、みなさんが風呂からあがって食事を始める前に成績表をコピーして全員に配布することができました。

 ただし、これが私が会社で作ったコンピューターの最後のプログラムになりました。本社には情報処理室というコンピューターを専門に操作する部署があったからです。

 1995年にOSのWindows95が発売されてからはプログラムを作成しなくても、誰でも簡単にパソコンを操作できるようになりましたね。会社はWindows95が発売されると間もなく数百人いた事務関係の社員全員にパソコンを購入して与えていました。

 今では、パソコンの性能は飛躍的に向上して値段は安くなっており、小型のノートパソコンでOfficeのExcelを使えば、ゴルフコンペの成績表も簡単に作れるようですね。

 私は本社の人事部へ転勤後、「少し人事制度の勉強をさせてほしい」と言ったら、人事部長から「勉強のためならお金はいくら使ってもいい」と言われたので、2年間ほど大阪や東京で開催されていた人事セミナーに出席したり、専門書や雑誌を読んだりして人事制度の勉強をさせてもらい、1993年ごろから会社の人事制度の見直しを始め、国内の人事制度の改定や新人事制度の導入を行い、1996年ごろからは海外子会社の人事制度の見直しや新制度の導入なども行いました。

 

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 1970年代のコンピューター(FACOM230-25)

 

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