三重の法務労務コンサルタント

仕事(人事労務、海外人事、税務、法務など)で学んだことや、趣味(歴史や旅行など)で感じたことなどを記載します

津城の歴史

 私の三重の自宅から2㎞ほど離れたところに、本丸・西の丸の一部と内堀だけしか残っていないのですが、今はお城公園となって整備されている津城跡があります。隣に市役所と図書館があるので、私はそこへ車を止めて時々お城公園内で散歩しています。

 この津城は1573年頃に信長の弟の織田信包が創築して最初の藩主になったのですが、1582年に信長が本能寺で亡くなった後15万石の大名として秀吉に従っていたのですが、1594年に改易されています。

 その後、主君を7度代えたということで有名な藤堂高虎が伊予の今治から移封されて津城の藩主となり、その時に津城は大改修されたようです。

 藤堂高虎は、最初は浅井長政の元で足軽となり、その後長政の旧臣2名の家臣となり、その後津田信澄(信長の弟の織田信行の子)に80石の俸禄で家臣となるのですが実力を認められなかったのでそこを去り、その後秀吉の弟の羽柴秀長に300石で仕え、そこで次々と功績をあげて2万石の大名にまでなります。

 秀長が亡くなった後は秀吉に仕えて功績をあげ7万石の大名となり、秀吉が亡くなった後は徳川家康に仕えて功績をあげ最後には32万石の大大名になります。

 意外と知られていないようですが、織田信包は一時期、母の土田御前や妹のお市の方と3人の娘、茶々、初、江をこの城で引き取り養っていたようです。

 お城公園の近くにある四天王寺に土田御前のお墓があります。

 信長が織田家家督を引き継いだ時、信長の母・土田御前は弟の信行を溺愛していたようで、また多くの家臣も信行を織田家の跡取りにしようと考えていたようで、信行は柴田勝家などを味方につけて信長に対して挙兵し、信長勢700人に対し信行勢1700人と優勢だったのですが、稲生の戦いで自ら先頭に立った信長に対し信行勢は恐れをなしたようで敗れてしまい、信行は窮地に陥ったのですが、その時は母・土田御前の取りなしにより許されています。その時、柴田勝家は頭を丸めて信長に忠誠を誓い許されており、以後は信長の忠実な部下となって活躍しています。

 一度許された信行は、翌年、再度謀反を企てるのですが、今度は勝家に密告され、信長が危篤になったと騙されて清洲城へ見舞いに行った時に信長に暗殺されています。

 信長は、母と信行の妻や子を自分が引き取るよりも、母は弟の信包に、信行の妻と子は柴田勝家に引き取らせた方がいいと思ったようです。後に信行の子の信澄は成人すると大名になり、本能寺の変の時に大阪城にいたのですが、明智光秀の娘を正室にしていたために内通を疑われ、信長の3男の信孝に急襲され殺害されています。

 信長は自分の妹、お市の方を1568年に浅井長政に嫁がせ、浅井家と同盟を結ぶことになります。典型的な政略結婚ですが夫婦仲は極めて良かったようで、長女の茶々、二女の初、三女の江が生まれています。

 ところが、1570年に夫である長政が兄の信長と戦い敗れて小谷城に籠城することになります。

 このような場合、普通ならお市の方は離縁され実家に戻されることになるのですが、お市の方はそのまま小谷城にとどまっており、1573年の落城の時に三姉妹を連れて小谷城を脱出しています。

 その後、信長の弟で、お市の兄にあたる織田信包の元で生活をしていますが、お市の方にしてみれば夫を殺害した信長と一緒に生活したくはなかったのだろうと思われます。

 信長もお市を可哀想だと思ったようで、二度とお市を政略結婚には利用しなかったので、その後約9年間は津城や清州城などで3人の娘と平穏な生活を過ごしていたようです。

 ところが、1582年に信長が本能寺の変で殺され、秀吉が織田家をつぶそうとしていることが明らかになると、お市の方は信長の三男の信孝から柴田勝家と同盟して秀吉に対抗するために柴田勝家と結婚してほしいと言われ、織田家のためにと思い、お市の方はその年に三姉妹を連れて越前の勝家の居城に移っています。

 ところが翌年に勝家は秀吉に敗れ、お市の方は勝家と一緒に自害し、三姉妹は秀吉の保護を受けることになります。

 その後、長女の茶々は秀吉の側室となり、当時数十名も側室がいたのに一人も子供はできなくて、常識で考えても子供ができるはずのない秀吉の子を生み、最初の子は3歳で夭折してしまいますが、秀吉が満56歳の時に次男の秀頼を生んでいます。

 二女の初は京極高次に嫁ぎますが、高次は妻のおかげ(七光り)で5千石から6万石の大名に出世します。

 三女の江は秀吉のはからいで三度目の再婚でしたが(最初の夫とは離縁、二度目の夫とは死別)、6歳年下で初婚だった2代将軍の徳川秀忠に嫁いで3代将軍の家光など2男5女の7人の子供を生んでいます。秀忠はこの時代には珍しくほとんど側室を持っていなかったようです。

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  お城公園の藤堂高虎

 

 

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