国連の女子差別撤廃委員会が日本に対し「皇位を継げるのは男系男子のみ」として女性天皇を認めない皇室典範を女性への差別だとして問題視し、見直しを求めようとしたのですが、日本政府がこれに抗議したため撤回されました。
現在の皇室典範では「皇位は、皇統に属する男系の男子がこれを承継する」と定められています。
日本政府は「我が国の皇室制度は歴史や伝統が背景にあり、皇位継承のあり方は女子に対する差別を目的としていない」と主張したようですが、やはりこれは今の日本政府の女性差別主義精神の表れだろうと思います。
なぜなら、わが国にはこれまで8人の女性天皇がいたのに、歴史や伝統を背景に女性の天皇を禁止する理由は何ら存在しないと思われるからです。
日本政府がいうように女性の天皇を禁止しているのは女性に対する差別を目的としてはいないとしても、これは民主主義で先進国であるはずの日本でいまだに一人も女性首相が誕生していないことにも表れているように、結果として日本女性の社会進出を妨げる心理的な要因になっているのだろうと思います。
歴代の女性天皇8人のうち、6人は6世紀末の飛鳥時代から8世紀後半の奈良時代に即位しており、2人は江戸時代に即位しています。
女性天皇の存在はその時代の女性の地位の高さを表しているようです。
飛鳥時代と奈良時代には天皇のうち約半数が女性天皇だったのですが、この時代には天皇家や豪族においては女性も男性と同等に親の財産を相続しており、女性の財産は結婚しても夫の財産とはならず、妻独自の財産として所有され続けていたようです。
したがって、皇位継承の権利も男性・女性とも等しく有していたようです。
平安時代以降に長く女性天皇が即位しなかった理由は、その後女性の地位が次第に低下していったことにあるのだろうと思います。
日本の最初の女性天皇は推古天皇(在位592年~628年)です。
炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)は18歳の時に敏達(びたつ)天皇の皇后となりますが彼女は容姿端麗であったと伝えられており、34歳の時に敏達天皇が崩御すると、敏達天皇の異母弟の穴穂部皇子(あなほべのみこ)は自分が天皇として即位できるものと思いこみ、炊屋姫(かしきやひめ)を自分の物にしようと思い彼女のいる宮殿に押し入ろうとしましたが、敏達天皇の寵臣三輪逆(みわのさかう)にはばまれ、怒って物部守屋に命じ三輪逆を殺させています。三輪逆は敏達天皇に深く信任されていたため、炊屋姫と蘇我馬子は穴穂部皇子を恨むようになります。
物部守屋は穴穂部皇子を天皇に立てようとしますが、蘇我馬子と炊屋姫はこれに反対し、敏達天皇の異母弟の大兄皇子(聖徳太子の父)を天皇(用明天皇)に立てました。
2年後に用明天皇が崩御すると、物部守屋は再び穴穂部皇子を立てようとしますが、蘇我馬子は兵を動かし穴穂部皇子を殺害します。穴穂部皇子を応援していた物部守屋も、蘇我軍に攻められて敗北し殺害されます。この時、厩戸皇子(うまやどのみこ・後の聖徳太子)は蘇我馬子の側について活躍しています。
蘇我馬子が物部守屋を討伐した後、穴穂部皇子の弟の泊瀬部皇子(はつせべのみこ)が崇峻天皇として即位します。崇峻天皇は即位後蘇我馬子の横暴に不満を持ち、馬子に対抗しようと密かに軍備を整えようとしていたようですが、天皇の妃(蘇我馬子の娘)が馬子にこのことを密告します。
これを聞いた馬子は部下に天皇を暗殺させると、次期天皇として日本初の女帝となる推古天皇を立て、西暦592年に初めて都を飛鳥に遷します。
推古天皇が即位するとすぐに厩戸皇子(聖徳太子)は皇太子に立てられて摂政となり、冠位12階を制定し、17条憲法を作るなど、蘇我氏に政治権力が集中しないように、天皇中心の国家体制作りの基礎を築きますが、聖徳太子は推古天皇より先に死亡しています。
2番目の女性天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)や大海人王子(後の天武天皇)の母親であった皇極天皇(642年~645年)で、大化の改新の時に弟(孝徳天皇)に皇位を譲りますが、弟の死後再度即位して斉明天皇(655年~661年)となります。
645年、皇極天皇の時に中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、宮中で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を攻めて自殺に追いやり、半世紀続いた蘇我氏の体制を滅ぼしています。
中大兄皇子の同父母の妹に間人皇女(はしひとのひめみこ)がいて、彼女は兄の中大兄皇子が好きだったようですが、中大兄皇子の方は鏡王女(かがみのおおきみ・額田王の姉)に夢中で、間人皇女は兄の皇子をあきらめて孝徳天皇の妃になります。
このころ、額田王(万葉集の代表的な女性歌人)は大海人皇子の妃で2人の間には娘の十市皇女(とおちのひめみこ)がいましたが、中大兄皇子に乞われて大海人皇子とは分かれ中大兄皇子の妃となりました。娘の十市皇女は後に中大兄皇子の息子の大友皇子(後の弘文天皇)の妃となります。
中大兄皇子は娘が成長すると、大田皇女(おおたのひめみこ・後に息子の大津皇子が4歳のころに死亡)と鵜野皇女(うめのひめみこ・後の持統天皇)を自分の弟の大海人皇子に妃として与えています。
654年に孝徳天皇が崩御するとなぜか中大兄皇子は皇位につかず、母の皇極天皇が再び斉明天皇として皇位につきました。
それは実の兄妹でありながら、中大兄皇子は孝徳天皇生存時から妹の孝徳天皇皇后と男女の関係になっており、これが中大兄皇子が孝徳天皇逝去時に即位できなかった理由だともいわれています。
3番目の女性天皇は持統天皇(686年~697年)で実際に強力に治世を遂行した女性天皇だったようです。
彼女は天智天皇の娘ですが、天智天皇が弟の天武天皇の妃だった額田王を自分の妃として譲ってもらった代わりに、弟に妃として与えられた女性で天武天皇の皇后となります。
天武天皇は鵜野皇女(持統天皇)の息子の草壁皇子を皇太子としますが、実は大田皇女(持統天皇の姉)の息子の大津皇子の方を可愛がっており、共に皇位承継の候補者だったようですが、天武天皇の死の翌月に大津皇子は謀反が発覚して自殺に追い込まれています。これは、実は鵜野皇女が謀反の罪を大津皇子にきせて彼を抹殺したのではないかともいわれています。
天武天皇の崩御後、鵜野皇女が即位して持統天皇となり、694年に都を飛鳥から藤原京に遷しています。持統天皇は、子の草壁皇子に位を譲るつもりでしたが、皇子が早死にしたため、孫が15歳になると位を孫に譲り文武天皇として即位させます。彼女は譲位した後も上皇となり、文武天皇と並び座して政務を執り、文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行ですが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられています。
4番目の女性天皇は天智天皇の娘の元明天皇(707年~715年)で、彼女は皇后を経ないで即位しており、710年に都を平城京に遷都しています。
彼女は持統天皇の異母妹で、天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の妃であり、文武天皇と元正天皇の母です。
夫の草壁皇子は即位することなく早世したのですが、息子の文武天皇も病に倒れ、25歳で崩御してしまいました。残された孫の首皇子(後の聖務天王)はまだ幼かったため、中継ぎとして、初めて皇后を経ないで即位しました。
5番目の女性天皇は元正天皇(715年~724年)で、母である元明天皇から譲位されて独身で即位した初めての女性天皇です。
皇太子である甥の首皇子がまだ若いため、母の元明天皇から譲位を受け、即位しました。歴代天皇の中で唯一、女性皇族間での皇位承継となります。
6番目の女性天皇は孝謙天皇(749年~758年)で743年に女性初の皇太子となり、6年後に父から譲位されて独身で即位しており、一度譲位した後に再度即位して称徳天皇(764年~770年)となります。
この孝徳天皇は独身で子供がいなかったため、皇太子を誰にするかが大きな問題でした。
この時に大きな力を握っていたのは藤原仲麻呂という人で、彼の推薦で大炊王(天武天皇の孫)を皇太子にすることに決めます。
その後、皇位を大炊王に譲り上皇となりますが、病で倒れた上皇を一人の僧侶が看病します。それが道鏡で、孝謙上皇は道鏡に絶対の信頼を寄せるようになっていきます。
いったんは、皇位を大炊王に譲っていた孝謙天皇でしたが、再び政権を取り戻して称徳天皇となり、寵愛する道鏡に法王の位まで授けます。その後、道鏡は天皇の座まで狙うのですが、称徳天皇が崩御すると後ろ盾を失い、関東地方に追放されてしまいました。
7番目の女性天皇は江戸時代の明正天皇(1629年~1643年)です。
彼女は後水尾天皇の娘で、母は2代将軍徳川秀忠の娘和子です。僅か7歳で即位して、21歳で異母弟の後光明天皇に譲位しています。
8番目の女性天皇は後桜町天皇(1762年~1770年)です。
彼女は桜町天皇の娘で、桃園天皇の異母姉ですが、桃園天皇の死後、英仁親王(後の後桃園天皇)が幼少だったため皇位を継ぎます。
江戸時代は儒教や封建制度の関係で、日本の女性の地位が最も低下した時代だったと思うのですが、それでも女性天皇が2人も存在しているのですから、21世紀の男女平等であるはずの日本社会で女性天皇を認めないというのは、多分、日本相撲協会が土俵を女人禁制としているのと同様に、時代錯誤の女性差別主義者の考え方なのだろうと思います。