三重の法務労務コンサルタント

仕事(人事労務、海外人事、税務、法務など)で学んだことや、趣味(歴史や旅行など)で感じたことなどを記載します

ヘンリー8世と6人の王妃

 以前、図書室で読んだ雑誌に、英語を上達するには学校での英語の学習のように知らない単語を辞書を引いて日本語に訳すのではなく、英語を多読して英語を英語のまま理解する方が良いと書かれていたのをみて、その教え通りにほぼ1年間1日2時間ほど辞書を引かずに、特に内容のわからない本や面白くない本は無理に読まずに、面白そうな英語の短編小説などを読んでみました。

 実際に1年間英語の本を読んでみて感じたのですが、辞書を引くと本を読むのに時間がかかることや、辞書を引くために何度も読むのを中断すると面白くなくなってしまうことや、英語を英語のまま理解せず日本語に訳して理解しようとすると原文の意味が少し変わってしまうことなどに気づきました。

 主にイギリスでのことを題材にした多くの本を読んだので、ほとんど知らなかったイギリス人の歴史や思想なども大分わかったのですが、例えば、有名なエリザベス1世の父親であるイングランドの国王「ヘンリー8世と6人の王妃」などを読んでみて、イングランド王室の残虐な歴史にも少し驚きました。

 今から約500年前、イングランド王ヘンリー8世は政治手腕を発揮し現在のイギリスの基礎を作った国王です。彼は、その生涯で6度も結婚をしたのですが、6人の王妃のうち1人は病死ですが、2人は離婚され、2人は処刑されています。

 同じ名前の王妃が多いので、読んでいると王妃を混同し勘違いしそうでしたが、6人のうち3人はキャサリン、2人はアン、1人はジェーンです。

 最初の王妃はスペインの王女キャサリン・オブ・アラゴンで、1509年にヘンリー8世は18歳で即位するやいなや、亡き兄の妻だった24歳のキャサリンと結婚し、ともに戴冠しています。しかし、キャサリンとの間には子は王女(後にイングランド初の女王となるメアリー1世)しかできず、当時のイングランドでは女性への王位承継は認められていなかったため、1530年ごろにヘンリーはキャサリンとの離婚を決意します。当時のローマカトリック教会では離婚は認められていなかったため、ヘンリー8世は英国国教会を設立してローマ教会と決別することで、強引に離婚を実行しました。

 2番目の王妃はキャサリン王妃の侍女だったアン・ブーリンで、ヘンリー8世がローマ教会と分離するという強硬手段に出たのはすでにアン・ブーリンが妊娠していたからなのですが、生まれた子は女子(後に有名になる女王エリザベス1世)であり、その後は流産を繰り返し新たな子供が生まれる可能性は低くなったので、王は邪魔になったアン・ブーリンに無実の不倫の罪をきせて1536年にロンドン塔の処刑台に送っています。

 3番目の王妃はアン・ブーリンの女官であったジェーン・シーモアで、アンを処刑した10日後にヘンリー8世は彼女と正式に結婚をしています。ジェーンは1537年に王子(後のエドワード6世)を生みますが、産後の肥立ちが悪く、急逝してしまいます。

 4番目の王妃はアン・オブ・グレーベスですが、これは政略結婚で、王は一度も彼女と寝室を共にしないまま、器量が悪いとの理由で半年後に離婚させられています。

 5番目の王妃はアン・ブーリンの従姉妹にあたるキャサリン・ハワードで、アン・オブ・グレーベスと離婚した同じ年に結婚します。しかし、キャサリンは弁護士や従兄弟と不倫の関係をもって奔放な振る舞いをします。当然、彼女の所業は王の知るところとなり、結婚1年半後の1542年にアン・ブーリンと同じ場所で処刑されています。

 6番目の王妃はキャサリン・バーで、キャサリン・ハワードの処刑後1年半ほどたって、ヘンリー8世は最後の王妃となるキャサリン・バーと結婚しますが、今度はヘンリー8世が病で1547年に57歳の生涯を終えました。彼女はヘンリー8世の最期を看取った女性です。

 6人もの妻を迎えながら、ヘンリー8世の子供は、男子1人(エドワード)と女子2人(メアリーとエリザベス)だけでした。1546年に王位継承法が改正され、資格の第一順位はエドワードですが、第2順位はメアリー、第3順位はエリザベスと女性への王位承継が認められることになりました。1547年に10歳の王エドワード6世が即位しますが1553年に病没したので、37歳の女王メアリー1世が即位します。エリザベスは、異母弟エドワード6世と異母姉メアリー1世の時代に、数度にわたって謀反を疑われ、ロンドン塔に幽閉されています。1558年にメアリー1世も病没したため、25歳のエリザベス1世が即位したのですが、彼女は生涯結婚をすることなく政治に一生を捧げて、大英帝国の基礎を作り1603年に70歳で亡くなっています。

 当時、エリザベス1世と争って敗れ、処刑されたメアリー1世という女王がいたので、当初この女性はエリザベスの異母姉のメアリーのことかと勘違いして読んでいたのですが、彼女はイングランド初の女王メアリー1世とは全く別人のイギリス北部スコットランドの女王メアリー1世でした。この2人は恋に生きた女性メアリーと国政に生きた女性エリザベスという宿命的なライバルだったようです。

 メアリーは1542年にスコットランドの王女として生まれ、父の急死により生後6日目にスコットランドの女王となります。彼女はフランスに渡り、フランスの国王と結婚するのですが、18歳の時、夫が病死したためスコットランドへ帰らざるを得なくなります。スコットランドへ帰ってダーンリというイングランドの貴族と結婚します。しかし幸福な結婚生活は長くは続かず、粗暴で短気というダーンリの本性が現れてきたので失望し、彼女は他の貴族を寵愛するようになるのですが、夫のダーンリが何者かに殺されるという事件が起きてメアリーが夫の殺害を指示したとの疑いがかかり、反乱貴族たちによってメアリーは王位を奪われたうえ、孤島の島の城に監禁されることになります。メアリーは城を脱出してエリザベスに助けを求めてイングランドに逃亡するのですが、エリザベスはメアリーをダーンリ殺しの容疑で監獄に捉えたので、その後19年間を獄中で暮らすことになります。メアリーはエリザベスを激しく恨み、何度も逃亡計画を企て、エリザベスの暗殺を企てたので、1586年にエリザベスはメアリーの処刑を決め、メアリーは44歳にして断頭台の露と消えることになります。

 1603年に、エリザベス1世が病に倒れた時に、彼女は結婚をせず子がいなかったので、処刑をしたメアリー1世の子で当時スコットランド王であったジェームス6世にイングランドの王位を譲っており、これによりジェームスがイギリス北部のスコットランド中南部イングランドの二つの国の王となり、その後イギリスは連合王国になっていきます。

 

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