三重の法務労務コンサルタント

仕事(人事労務、海外人事、税務、法務など)で学んだことや、趣味(歴史や旅行など)で感じたことなどを記載します

私の親父

 私の親父は、大正2年に、香川県西部の三豊郡常磐町(現在は観音寺市)という所の小作農家の家に生まれています。

親父は6人いた兄弟姉妹のうち3番目で、兄と姉と、3人の妹がいました。

 親父の若い時代の話は、親父自身や親戚の叔父さん・叔母さんやおばあさんなどに聞いたことですのでどれだけ本当かは分からないのですが、次のような内容でした。

 親父の小学校時代は、小作農兼馬引き(今のトラックの運転手のようなもの)をしていた厳しい父親と、病弱な優しい母親と、いつも母親を苛めていたらしい姑がいて、学校の成績は良かったのですが悪ガキだったようで、よく学校からの帰り道に別の村の子とけんかの約束をして、翌日の朝3時に起きて、親には内緒で近くの丸山という頂上に神社がある小さな山のふもとに集まってけんかをして帰り、何もなかったようなふりをして朝の食事を食べて小学校へ行っていたようです。

 これは、今の子供のような遊ぶものがなかったから、当時の男の子供たちの遊びだったのだと言っていました。

 当時は家が貧乏だったので、普段は米の飯は食べられずに麦飯を食べていたそうで、たまたま米の飯を食べているときに友達が遊びに来たら、それを自慢したくて立って茶碗を持って飯を食べながら外へ出て行って、友達に会ったことがあると言っていました。

 あるとき近くの農業用のため池へ泳ぎに行って飛び込んだら、池の中に地上からは見えなかった木の杭があったようで、その杭で頭を打ち、頭から血が出てきたので慌てて薬を塗ってもらおうと思って家へ帰ったら、父親がいて薬を塗ってくれずに反対に怒られたので、はいていた草履を父親の顔に投げつけて、はだしで逃げたというようなことがあったそうです。

 当時は、小学校は義務教育なので全員通学するのですが、中学校(4年制?)は金持ちの子供だけが行けたようで、貧乏な家の子供が勉強を続けたい場合は小学校に増設されていた2年制の高等小学校へ行ったようで、親父も家の農業を手伝いながら高等小学校へ行ったそうです。

 高等小学校を卒業する時に、寮が有り学費が無料の高松の師範学校(今の香川大学)を受けて合格したのでそこへ入学し、寮でも電気代(油代)がもったいないから、夜は早く寝て、早朝など明るいうちに勉強をしていたそうです。

 師範学校では、最初体操の選手だったそうですが、蟹股だったので逆立ちをした時に両足をきれいにそろえられなかったので陸上部に代わり、その後の師範学校時代や若い時の教員時代には香川県のマラソン大会ではいつも優勝をしてメダルもたくさんもらったが、四国大会では高知県に優れた選手がいて、いつも2位にしかなれなかったと言っていました。

 師範学校を卒業後、小学校の先生として勤務することになったので、兄に連れられて校長先生に挨拶に行ったら、親父が校長先生に頭を下げないので、兄が頭を下げさせようと思って頭を押さえたら、怒って反対に頭をのけぞらせたそうです。

その後、お金を儲けようと思って、白粘土から当時は高価だったアルミニウムを取り出すという研究を3年間行ったが成功しなかったそうで、その時の研究用の小屋は私が子供の時には牛小屋になって残っていました。

満州に行くと給与が日本の3倍もらえるというような話があり、満州へ行こうと思った時があったようですが、父親が3日間口を利かなくなったので諦めたそうで、結果的には行かなくて良かったと言っていました。

 戦前に、学校で子供たちを戦争に協力させるような教育をしてきたことを反省したようで、戦後は平和運動に参加するようになり、組合活動もするようになって、6年間も香教組(日教組香川県版)の委員長をして、学校には勤務せず組合専従の活動家となっていました。

住まいの観音寺から勤務地の高松まではJR の普通電車で 片道2時間ほどかかるので、親父は普段は勤務地の事務所に泊まって、週末に家へ帰って来ていました。

私が中学時代には、安保反対デモ、勤評反対デモなどが全国的に起こっていましたが、私の親父もその関連でデモやストライキなどをしていたようで、たまたま祖母が見ていたテレビニュースに親父が警察に捕まったところが映っていたそうです。祖母はそのニュースを見てびっくりして、今まで我が家でおまわりさんに捕まるような人は出なかったと言ってひどく嘆いたので、家族や親戚の人が心配して集まり相談して、その晩に母危篤という電報を打ったそうです。親父も驚いて帰って来たそうですが、嘘だと分かって怒って一言もしゃべらずに翌朝一番の電車に乗って高松へ帰って行ったそうです。

当時、親父は高松で、三日間ほど、政府の政策などに反対するために、県庁前などでござに座って飯も水も飲まないというハンストをしたことがあったようで、周囲の人から大変だったでしょうねと言われて、ダイエットになりましたと笑って答えたそうですが、私には夜中に水やパンを差し入れてくれる人があったのだと教えてくれました。

 当時は、時々新聞の地方版(香川版)に親父の記事が小さく掲載されることがあり、学校で担任の先生からその記事を見せてもらったことがあります。一度四国新聞にかなり大きな枠で家族紹介が載ったことがあり、それを読んだ時に事実と大分異なっていたので、新聞は記者が編集するから事実とは大分異なるものだということを初めて知りました。

 私は4人兄弟ですが、小学校のころ他の3人は成績がクラスでも学年でも1番だったようで、卒業式では5年生と6年生の時に学年を代表して送辞や答辞を読んでいたのですが、私だけ成績が真ん中ぐらい(クラスで25番ぐらい)だったので、母が親父に私を勉強するように叱ってくれと言ったそうですが、親父は叱って伸びる子供はいない、子供は褒めて伸ばすものだと言ったそうです。

 親父は私が高校生になった時に教職員組合の専従活動を止めて中学校の先生として復帰したのですが、当時の香川県西部から選出されていた県会議員から次の選挙では立候補をせず親父に変わると言われ、社会党から県議会への立候補を進められたそうですが、どちらも親父は断ったようです。その時、親父は政治家は裏があって汚れた世界なのだ、国会議員でも本当にきれいな選挙をしているのは成田知己さん(高松出身で、当時の社会党の書記長や委員長だった人で、親父は親しかったので我が家へ来たこともある人です)ぐらいだと言っていました。

 中学校では陸上部の顧問として、不良学生を入部させて補導したりしていたようで、私の祖母の葬式の時に教え子が少年院を逃げ出したそうで、その子が家に訪ねて来て葬式を見て黙って帰ってしまったのではないかと心配していました。高校の入学試験前にボーダーラインにいる生徒を数名家へ呼んで勉強させていたことがありましたが、公務員は職務専念義務があるから学校の先生は塾のようなアルバイトをしてはいけないのだと言って、無料で教えていました。

 私の母は自分の家族だけを特に大切にしましたが、親父は自分の家族だけではなく、友人や親戚や近所の人達をいつも大事に扱った人で、例えば月に1回程度ですが家ですき焼きをした時には近くの親戚に声をかけて一緒に夕食を食べるし、私が遊びに行く時にたまに嘘をついて友人との約束があると言った時も、友人との約束は大切だと思っているようで必ず許可してくれました。

家で法事をした後に、親戚や近所の人が酒を飲んで料理を食べながらしばらくは話し込んでいたことがあったのですが、だんだんと調子に乗ってきて歌を歌いだす人もいて、裏方で酒や料理の世話をしていたおばさんたちはなんで法事で歌を歌うんやと腹を立てて悪口を言っていたのですが、そのうち1人が酔いつぶれて寝だしたので、親父はその人が風邪をひかないように軽い布団をかけて、うちわであおいであげるなどして起きるまでじっと待っていて、その人も目が覚めるとみんな帰って自分しか残っていなかったのでさすがに気まずいような様子でしたが、親父はその人に恥をかかせないように、また10分程世間話をしてから、その人を送り出していました。

 親父は、定年後はサツキを栽培して品評会に出すなど、打ち込むものが急に変わったので周囲の人がびっくりしていたようですが、67歳の時に心筋梗塞でベッドで休息中に亡くなっていました。

 親父が生存中は、我が家には多分親父を慕ってよくいろんな方面の人が集まっていたのですが、親父が亡くなると我が家も普段は母一人だけが住むことになり、急に家族や特に親しい親戚や近所の人以外は、ほとんど誰も来なくなってしまったようでした。

 

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