三重の法務労務コンサルタント

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親鸞と蓮如

 浄土真宗の宗祖といわれる親鸞は、平家の全盛時代であった1173年に京都の日野の里で、日野家という貴族の家に生まれました。

親鸞が8歳の時に以仁王の令旨を受けて源氏が全国で挙兵し、戦乱に巻き込まれて都は飢饉に襲われています。

このような乱世の中で、親鸞は9歳の時に出家して比叡山にのぼり僧侶となっています。

 親鸞は29歳の時、20年におよぶ修行生活をしても叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、山を降りて京都の六角堂に百日の参籠をしました。そして、95日目の夜、夢で救世観音のお告げを受けたといわれています。

「行者、宿報にて説い女犯すとも、我、玉女の身となりて犯せられん、一生の間能く荘厳して臨終に引導して極楽に生ぜしめん」(訳-仏道修行者が、前世からの宿業によって、もしも妻帯の道を行こうとするのであれば、私が妻となろう。そして一生の間伴侶となって、臨終に際しては極楽に導いてあげましょう)というお告げです。

これは私の誓願である。この誓願の趣旨をよく広めてすべての人びとに聞かせなさいと救世観音が言われたので、親鸞はこれを日本の仏教者に広めなければいけないと思ったのだそうです。

仏教では、僧侶が肉食妻帯することを戒によって禁じていました。しかし、実際には密かに妻をもつ僧侶もあり、比叡山の僧侶たちも黙認していたようですが、親鸞は公然と妻帯しました。

親鸞は、公式に妻帯した日本で最初の僧侶です。

親鸞恵信尼という女性との間に男女合わせて7人の子供をもうけたといわれていますが、親鸞の死後は、末娘の覚信尼という女性が宗派を取りまとめています。

親鸞恵信尼を観音さまの化身だと信じていたそうですが、妻の恵信尼も夫の親鸞を終生観音さまの化身だと信じていたということを、夫の死後に娘の覚信尼への手紙で明らかにしています。

浄土真宗では僧侶に妻帯を認めていますが、他の宗派では明治以後になって初めて僧侶に妻帯が認められるようになったそうです。

親鸞は、35歳から62歳まで、北陸から関東にかけて布教活動をしており、62歳の時に京の都に帰り、90歳で死ぬまで執筆活動をしています。

親鸞の教えは、歎異抄に書かれている悪人正機説「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人おや」(訳-善人ですら極楽浄土へ行くことができる、まして悪人は極楽浄土へ行くのは当然ではないか)に特徴があります。親鸞は、欲望の深い煩悩に満ちた人間(悪人)こそ阿弥陀さまが救おうとした人間であると説いています。(私見ですが、親鸞は「人間はすべて悪人であり、自分が善人だと思っている人は実は偽善者に過ぎないのだ」といっているように思います。)

親鸞は宗派を開くつもりはなく、自分が死んでも葬式や墓なども一切いらないと考えていたようで、「それがし閉眼せば、鴨川に入れて魚にあたうべし」(訳-私が死んだら遺骸は鴨川に放り込んで、魚の餌にしなさい)という遺言を残して、90歳の生涯を閉じました。

しかし、その遺骸は覚信尼や弟子たちによって火葬され、遺骨は大谷に納められ、10年後には盛大な法要が営まれて浄土真宗の基盤が確立しました。本願寺は、大谷に葬られた親鸞墓所が発展してできたものです。

 

 浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如は、1415年室町時代に京都の本願寺第7世の長子として生まれ、1457年に本願寺第8世となり、1499年に85歳で亡くなるまで浄土真宗の布教に心血を注いだ僧侶です。

 蓮如の布教活動は、教義を分かりやすい手紙に書いて説いていくのが特徴で、蓮如の書いた手紙の多くは「御文章」に収められています。

 蓮如の教えを分かりやすく書き記した手紙の発行による布教活動が、遠くにいる人々にも教えを広めるのに大きな効果がありました。浄土真宗蓮如の布教活動によって全国へと大きく発展していきました。

 有名な「白骨の御文章」は、本願寺の近くに住んでいた下級武士が、17歳の娘に縁談が調い、喜んでいたら挙式の当日に急病で無くなってしまい、火葬の後、白骨を納めて帰ったその武士は、「これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か」と悲嘆にくれ、51歳で急逝。度重なる無常に、武士の妻も翌日、37歳で愁い死にしてしまった。その2日後、本願寺にお布施をした人の17歳になる娘もまた急病で亡くなったという話を聞いて、蓮如が75歳の時に書いたそうです。

白骨の御文章

「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。

 されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。

 されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。

 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。」

 蓮如は、85年の生涯に5人の妻を迎えています。生き別れした妻は一人もいなく、すべて病気で死に分かれ、次の妻を迎えており5人の妻との間に13男、14女をもうけています。

 蓮如は28歳の時に最初の妻を迎え、7人の子供を産みますが、13年後に妻は病気で亡くなります。2番目の妻は、前の奥さんの実の妹で、10人の子供を産みますが蓮如が56歳の時に亡くなります。3番目の妻は下働きで2番目の妻の子供の世話をしていた女性ですが、子供を一人産んだ後、産後の肥立ちが悪く、蓮如が64歳の時に亡くなります。この妻は知人に夫より早く死にたいと言っていたそうです。普通の女性は夫が可哀想だから夫を見送ってから死にたいと思うが、彼女は自分が死ねば、もっと心の深い女性が夫の世話をしてくれるから、自分は夫より先に死にたいと考えていたそうです。4番目の妻も子供2人を残して蓮如が70歳の時に亡くなります。5人目の妻を迎えた時、蓮如は72歳、妻は21歳でしたが、彼女との間に5男2女をもうけており、最後の子をもうけたのは死の前年、蓮如が84歳の時でした。彼女は蓮如の死を看取って、54歳まで生きました。この27人の子供たちがさらに蓮如の教えを全国に広めていくことになります。

 

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   浄土真宗 西本願寺

 

 

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