三重の法務労務コンサルタント

仕事(人事労務、海外人事、税務、法務など)で学んだことや、趣味(歴史や旅行など)で感じたことなどを記載します

大阪湾と淀川・大和川

 一昨年の4月から1年間、大阪の高齢者大学の「大阪の史跡探訪科」というコースを受講していたのですが、ここでの講義を聞いて、今の大阪平野は3千年前には海であったというようなことを初めて知って少し驚きました。

 大阪湾や淀川・大和川などの歴史的な変遷は次のようなものであったようです。

 氷河期の終わりごろの約1万年前には、海水面は今より25mも低く、平地は今の大阪湾にまで拡がっていました。

 ところが、氷河期の後、少しずつ気温が上昇し、氷が溶けて海水面も高くなり、6千年前ごろになると、海水面が現在より少し高くなり、海が生駒山系の西麓まで侵入してきて、大阪平野に海ができました。今の東大阪市や八尾市まで海が広がっていたのです。これを「河内湾」の時代と呼んでいます。今の大阪市の中心部にある上町台地が、半島のように北へのびていました。

 この河内湾に流れ込んでいた淀川や大和川の流す土砂によって河内湾は次第に狭められ、4千年前ごろになると河内湾は少し小さくなります。

 やがて2千年前ごろになると、上町台地北部(今の大阪城あたりです)の砂堆(さたい)が海潮流のために発達し、北摂地方に接したため、河内湾の海峡が閉塞され、河内湾が淡水化しました。このころを「河内湖」の時代といいます。

 その河内湖も次第に狭まり、蓮如上人が後の本願寺となる石山御坊を建てた頃や、本願寺と同じ場所に大阪城を建てた秀吉の時代になると、河内湖は消えて、沼地が点々と存在する河内平野に変わり、海岸線もかなり西に後退し、現在の地形に近くなっていたようです。

 現在の大和川は柏原から西へと流れていますが、300年前の付け替え前には北や北西に流れていました。この流域は東の生駒山地と、西の上町台地という高い土地に挟まれ、南にはいくつかの丘陵となだらかな傾斜地があります。その複雑な地形に沿って、久宝寺川(今の長瀬川)、玉櫛川(今の玉串川)、平野川などに分かれながら、大坂城の北で旧淀川(今の大川)に流れこんでいました。

 しかし、大和川は洪水を繰り返し河内の洪水被害が大規模化したため、1704年に付け替え工事が行われ、大和川は淀川とは切り離されて、現在のように堺市のすぐ北側の大阪湾に直流するようになったのです。

 一方、淀川は明治時代まで、大川(旧淀川)、中津川、神崎川の三川に分かれ、川幅が狭く蛇行していたため、洪水を繰り返していましたが、1885年(明治18年)の洪水による大きな被害で、淀川の改修への要望が高まり、淀川下流部を改修して、大量に、早く、安全に水を流すため、川幅500mを超える、ほぼまっすぐ大阪湾へ流れる放水路(現在の新淀川)が1910年に作られました。

 現在は、また地球の温暖化で海水面が高くなってきているようですので、地震による津波や台風による高潮などが大規模に発生した場合には、昔は河内湾だった地域や、昔は大阪湾だった上本町台地よりも西の地域などは、洪水で、また水没するかもわかりませんね。

 

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      約6千年前の大阪

 

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