三重の法務労務コンサルタント

仕事(人事労務、海外人事、税務、法務など)で学んだことや、趣味(歴史や旅行など)で感じたことなどを記載します

中国の文化大革命

 

文化大革命とは、中国で1960年代後半から1970年代半ばまで約10年間続いた、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しようという運動だといわれていますが、実質は多数の人民を巻き込んだ共産党指導部の権力闘争であったようです。

背景としては、毛沢東が進めてきた大躍進政策(農工業の大増産政策)が失敗し経済が破綻して、毛沢東国家主席の地位を劉少奇に譲り、変わって劉少奇や鄧小平などが修正主義的路線に基づいて経済を再建していたことや、フルシチョフスターリン批判を契機に起きた中ソの社会主義路線対立などが考えられます。

文化大革命の発端は、1965年11月に姚文元(ようぶんげん)が毛沢東の命を受けて、上海の新聞に論文を発表し、毛沢東から批判され失脚させられた彭徳懐(ほうとくかい)を暗に弁護した京劇「海瑞罷官(かいずいひかん)」の作者を批判したことでした。日を追うにつれ、批判は激化し、1966年になると作家や文芸理論家や大学の教授など著名な文化人が次々と激しい批判にさらされました。ここにいたって、姚文元の意図が単なる文化・芸術のあり方を問題にしているのではなく、その標的は上記文化人らの擁護者である劉少奇や鄧小平らの政策と路線にあること、それが毛沢東に反対する修正主義であり、批判されねばならぬことを示唆したものであることが明らかになりました。実質は毛沢東らが劉少奇らに仕掛けた権力闘争なのに、文化大革命と呼ばれるのは、これが以上のような文化人批判に始まったことによります。

1966年5月、北京大学の構内に大学の学長や大学・北京市共産党幹部を名指しで批判する内容の壁新聞が張り出されます。そして、精華大学では「紅衛兵」と呼ばれる組織が登場します。これは日本で言えば「全学連」みたいなもので、体制批判の学生集団です。

1966年8月には、共産党の総会で、党内には資本主義の道を進む実権派(劉少奇や鄧小平などの当時の共産党指導部のこと)が存在すること、今回の文化大革命の目的は大衆を立ち上がらせて、これらの実権派を打倒すべきであることが、明確に示されました。

この会議で、劉少奇と鄧小平の序列が大幅に低下し、代わって林彪が序列2位になります。

紅衛兵は、1966年5月に結成され、初めは北京だけでしたが、8月以降は全国の主要都市に出現しました。最初は革命的な大学生・高校生を主体としたものでしたが、次第に無知な中学生や青年労働者などが加入して拡大を続け、毛沢東をシンボルとして街頭に進出し、実権派打倒の激烈な行動を開始しました。

彼らは、共産党の幹部宅などに押し寄せて彼らを外へ連れ出し大衆の前で三角帽子をかぶらせて連れまわし自己批判をさせて失脚させ、殺戮や自殺などに追い込んだようです。その後批判対象は共産党の幹部にとどまらず、教師など一般の知識人にも拡大し、このときに知識人の80%は職場から追放されたようです。文革中には、大学進学にも学力テストは廃止されて、代わりに毛沢東思想や労働体験が必要だとされて、学校では授業もあまり行われず、学生の知識も相当低下したようで、この時代の若者は現在の中国社会でもほとんど重要なポストでは活躍していないようです。

その後粛清運動が一般の大衆にも拡大して1000万人以上といわれる大量の殺戮と混乱に陥り、毛沢東らの文革派の幹部も統制できなくなり、1500万人にも達した用済みの紅衛兵の処遇に困り、1969年には若者たちは農村から学ぶ必要があるといって(下放運動)学生たちを農村に移送させ、紅衛兵運動を収束させています。

1969年4月に開かれた共産党大会は、毛沢東らの文革派による勝利を祝う大会であり、実権派打倒に功績のあった林彪が副主席に選ばれて、毛沢東主席の後継者であることが規定されたほか、党中央の政治局員に紅青(毛沢東婦人)や姚文元らが選ばれました。

文化大革命の2大勢力は、人民解放軍林彪派と紅青ら宣伝部の4人組でした。ともに毛沢東を神格化し、その影に隠れて勢力を伸ばしたグループです。その片方の林彪毛沢東の暗殺・クーデター計画に失敗して脱出中に事故にあい死亡するという事件が起きました。

林彪の失脚後、1971年に周恩来が政治の表舞台に登場してきます。周恩来林彪や4人組の攻撃対象でしたが、毛沢東と長年の友人であり、その後ろ盾で権力の中に残っていました。周恩来は現実主義者で、国家の発展のためには近代化が必要だと考えて、近代化路線を宣言し、鄧小平も復活させます。この近代化路線は、かつて劉少奇や鄧小平が進めようとした路線と同じですから、4人組の抵抗にあいます。

1973年の党大会では王洪文が副主席、長春橋が副総理、紅青と姚文元が政治局員に就任し、4人組が共産党の要職を占めるようになります。

1976年1月には周恩来が癌で死去し、4人組が権力を占めると思われました。

鄧小平の指導の下で当時の中国の経済は回復基調にありましたので、中国の民衆はせっかく軌道に乗ってきた近代化路線が頓挫するのではないかと不安になり、4人組批判の行動にでます。1976年4月、天安門広場に人々が集まり、周恩来首相擁護、4人組打倒を叫び始めます。しかし、共産党指導部はこれを反革命運動であると判断し、警察力でこの住民運動を押さえ込みました。4人組は、この運動の首謀者が鄧小平であるとして、彼を再び失脚させます。しかし、1976年9月に彼らの盾であった毛沢東が死去しました。4人組は紅青を党主席に就かせようと活動しますが、これを阻止すべく反4人組連合が急速に出来上がりました。反4人組連合は10月に4人組を逮捕しました。

1977年8月に開かれた党大会では、文革終結が正式に宣言され、4人組が断罪され、実権派といわれ、迫害され追放されていたかつての指導者たちの名誉が回復され、復活しました。

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