三重の法務労務コンサルタント

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飛鳥時代の朝廷

 最近、韓流ドラマなども時々見るようになってきたのですが、韓流ドラマには意外と韓国(朝鮮)の王朝を舞台にしたドラマが多くて、日本でもかなり人気があるようですね。

 日本でも飛鳥時代あたりの激動期の王朝を舞台にしたドラマを作れば、韓国の王朝ドラマよりもずっと迫力があり、面白くて人気も出そうなドラマができると思うのですが、日本では過去の天皇王朝をドラマの舞台にするのはタブーなのか、余り王朝ドラマはないようですね。

 日本の飛鳥時代とは、6世紀の末ごろから7世紀の末ごろにかけて、現在の奈良県高市郡明日香村付近に都が置かれていた約100年間の時代をさします。

 6世紀の半ばに百済から仏教が伝来すると、当時朝廷において最も勢力のあった蘇我氏物部氏の間で争いが起きます(神仏紛争)。

6世紀後半の敏達天皇の時代に、蘇我馬子は熱心に仏像を礼拝しましたが、物部守屋は昔からの神を重んじて仏像礼拝に反対しました。

 敏達天皇崩御すると、穴穂部皇子は自分が天皇として即位できるものと思いこみ、炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を自分の物にしようと炊屋姫のいる宮殿に押し入ろうとしましたが、敏達天皇の寵臣三輪逆にはばまれ、怒って物部守屋に命じ三輪逆を殺させています。三輪逆は敏達天皇に深く信任されていたため、炊屋姫と蘇我馬子穴穂部皇子を恨むようになります。

物部守屋穴穂部皇子天皇に立てようとしますが、蘇我馬子と炊屋姫はこれに反対し、穴穂部皇子の異母兄弟の大兄皇子(聖徳太子の父)を天皇用明天皇)に立てました。

2年後に用明天皇崩御すると、物部守屋は再び穴穂部皇子を立てようとしますが、蘇我馬子は兵を動かし穴穂部皇子を殺害します。穴穂部皇子を応援していた物部守屋も、蘇我軍に攻められて敗北し殺害されます。この時、厩戸皇子(後の聖徳太子)は蘇我馬子の側について活躍しています。

聖徳太子の母(用明天皇の皇后)と穴穂部皇子と泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)とは同父母の姉弟で母は蘇我氏の娘で、蘇我馬子は母方の伯父になります。

 蘇我馬子物部守屋を討伐した後、穴穂部皇子の弟の泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位します。崇峻天皇は即位後蘇我馬子の横暴に不満を持ち、馬子に対抗しようと密かに軍備を整えようとしていたようですが、天皇の妃が馬子にこのことを密告します。

これを聞いた馬子は部下に天皇を暗殺させると、次期天皇として日本初の女帝となる推古天皇を立て、西暦592年に初めて都を飛鳥に遷します。

厩戸皇子聖徳太子)は皇太子に立てられて摂政となり、冠位12階を制定し、17条憲法を作るなど、天皇中心の国家体制作りの基礎を築きました。

 621年に聖徳太子が、626年に蘇我馬子が、628年に推古天皇が亡くなります。聖徳太子が亡くなった後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿の専横ぶりが激しくなり、643年に聖徳太子の子で皇位承継の候補者だった山背大兄王の一族を滅ぼすなど、皇位承継も蘇我氏の思うがままで、天皇をもしのぐ権力をもつようになります。

 645年、皇極天皇中大兄皇子の母)の時に中大兄皇子(後の天智天皇)は中臣鎌足らと謀り、宮中で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を攻めて自殺に追いやり、半世紀続いた蘇我氏の体制を滅ぼしています。

中大兄皇子は、その年に元号を大化と改め、都を大阪の難波宮に移し、孝徳天皇皇極天皇の弟)を即位させ、自分は皇太子となり様々な改革(大化の改新)を行いました。

中大兄皇子の同父母の妹に間人皇女がいて、彼女は兄の中大兄皇子が好きだったようですが、中大兄皇子の方は鏡王女(額田王の姉)に夢中で、間人皇女は兄の皇子をあきらめて孝徳天皇の妃になります。鏡王女は中大兄皇子の妃だったのですが、後に中臣鎌足に譲られて鎌足の妻となります。

このころ、額田王万葉集の代表的な女性歌人)は大海人皇子中大兄皇子の弟で後の天武天皇)の妃で2人の間には娘の十市皇女がいましたが、中大兄皇子に乞われて大海人皇子とは分かれ中大兄皇子の妃となりました。娘の十市皇女は後に中大兄皇子の息子の大友皇子(後の弘文天皇)の妃となります。

中大兄皇子蘇我入鹿を討った同志である右大臣の石川麻呂の娘の遠智娘を妃にしていましたが、力を増してきた石川麻呂に対して、裏切り、謀反の濡れ衣を着せて攻め滅ぼしてしまいます。夫に両親を殺された遠智娘は悲嘆のあまり大田皇女と鵜野皇女という2人の幼女を残して亡くなってしまいます。中大兄皇子は娘が成長すると、大田皇女(息子の大津皇子が4歳のころに死亡)と鵜野皇女(後の持統天皇)を自分の弟の大海人皇子に妃として与えています。

孝徳天皇皇位についたものの、実権は中大兄皇子が握っていて、7年後に反対する孝徳天皇を難波に残したまま、都を飛鳥に戻します。

654年に孝徳天皇崩御するとなぜか中大兄皇子皇位につかず、母の皇極天皇が再び斉明天皇として皇位につきました。それは実の兄妹でありながら、中大兄皇子孝徳天皇生存時から妹の孝徳天皇皇后と男女の関係になっており、これが中大兄皇子孝徳天皇逝去時に即位できなかった理由だともいわれています。

661年に斉明天皇崩御した後も中大兄皇子は数年間皇位につかず、皇太子として政務に当たります。

668年にようやく中大兄皇子が即位して、天智天皇となります。天智天皇は弟の大海人皇子を皇太子に立てましたが、内心は皇位を自分の息子の大友皇子に譲りたかったので、671年1月に大友皇子太政大臣に任命します。

同年10月、病に臥していた天智天皇は弟に後事を託したいのでと伝え邸内に招き入れようとしますが、弟の大海人皇子は兄に暗殺されることを恐れて固辞し、直ちに出家して剃髪し妃の鵜野皇女とともに吉野へ逃れます。

同年12月、天智天皇崩御し、大友皇子弘文天皇として即位しますが、その半年後に大海人皇子が吉野で兵をあげます。

壬申の乱ですが、額田王の娘十市皇女から見れば父と夫の皇位争いで、1ヶ月で乱は終結しますが破れた大友皇子は自殺に追い込まれます。

勝利した大海人皇子は、即位して天武天皇となり、中央集権的な国家体制の整備に努めます。天武天皇は鵜野皇女の息子の草壁皇子を皇太子としますが、実は大田皇女の息子の大津皇子の方を可愛がっており、共に皇位承継の候補者だったようですが、天武天皇の死の翌月に大津皇子は謀反が発覚して自殺に追い込まれています。

鵜野皇女が昔父(天智天皇)がよくやったのと同じ方法で、謀反の罪で大津皇子を抹殺したのではないかともいわれています。

天武天皇崩御後、鵜野皇女が即位して持統天皇となり、694年に都を飛鳥から藤原京に遷しています。持統天皇は、子の草壁皇子に位を譲るつもりでしたが、皇子が早死にしたため、孫が15歳になると位を孫に譲り文武天皇として即位させます。

 

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